1953年に制作された小津安二郎監督の映画作品『東京物語』は、
BBC「21世紀に残したい映画100本」に選出されたり、
今でも、レンタルビデオのトップランキングの中にある。
尾道に暮らす老夫婦が、東京に暮らす子供たちの家を訪ねる話を骨子としたもの。
どこにでもある、ありふれた日常的な生活を描き、それでいて心に残る作品。
また、映画監督・黒澤明は、ヴェネツィア国際映画祭で『羅生門』で金獅子賞、
『七人の侍』が銀獅子賞を受賞するなどした。
その両方の作品で黒澤と共同で脚本を手がけたのが橋本忍だった。
彼の脚本で『侍(さむらい)の一日』という映画作品が制作されるはずだった。
ストーリーは、まさに侍の一日。
「朝起きて、月代(さかやき)を剃り、大小をさし、中間(ちゅうげん)を従えて登城する。
夕刻に些細なミスを犯してしまい切腹をして死ぬ。
夕闇のその庭には桜が七分咲きであった」というもの。
何でもない日常の中で、切腹という形で果てる話として作られるはずだったが、
結局は脚本段階で中断する事になる。
何でもない日常を描くためには、映像化された日常が、
誤摩化しのないリアルなものでなければならない。
『東京物語』が時代を経ても持ちこたえているのは、
その時代の日常を忠実にを描いていた事に他ならない。
「事件の歴史は記録されているが、生活の歴史は記録されていない」
つまり、その時代が持っている有り様をリアルに伝える事が出来ないとして、
断念に至ったようだ。
もう一つ、リアルに描く事を妨げているものといえば「画質の向上」。
現代の映像は、何でも、くっきりキレイに見える。
そのため、かなり精巧に作られたものでない限り、
セットであることがマルわかりになる。
怪獣映画を作ると、模型の街がチャチなツクリモノに見え、
背中に位置するファスナーのシールドラインまで見えてしまう。
こうなっては、
高画質で再現できてしまう事が、かえって映像にリアル感がなくなってしまう。